MIS.W 公式ブログ

早稲田大学公認、情報系創作サークル「早稲田大学経営情報学会」(MIS.W)の公式ブログです!

「先輩ですか?」【アドベントカレンダー11日目】

こんにちは。49代MIDI研のみるくと申します。

何か作曲について書きたいと思っていたのですが、大したスキルも経験も無いため、なぜ23歳で大学2年生をやっているのか解説することにしました。中身も何もありませんが、暇つぶしにでもなれば幸いです。

現役受験の闇

・勉強時間は1日15分

現役受験当時は某T進の衛星予備校に通っていました。衛星予備校は直接先生が教えてくれるものではなく、個別ブースでPCから映像を観るという形でした。堕落大好きな私にとって、このシステムは寝てくれと言わんばかりのものでした。

平日予備校に着くのは18時ぐらいで、ひとつの授業が90分なので2つ受講して丁度良い時間に帰宅、というのが理想でした。同じ高校の友人数人も同じ時間に来るため、そんな理想はことごとく打ち破られることになるわけであります。この予備校には休憩スペースがあり、勉強に疲れた人たちが一息つける場所と(以前は)なっていたようですが、私達が到着すると祭りが始まります。5人程度で休憩スペースを占領し、自販機で各自コーラを買い、どうしようもない話で騒がしく盛り上がります。友人がもってきた柿ピーを床に撒き散らし、コーヒーを吹き出す等、やりたい放題でした。ある程度時間が経つと、チューターや室長が怒鳴りにきます。そそくさとブースに籠もり、勉強するかと思いきや、皆寝るのです。 そんなこんなで10時ぐらいになり、実質勉強時間は単語帳を数ページ見るだけの約15分。今思うとお金のもったいなさが凄まじかったです。

・間に合わない数ⅢC、甘えのA判定

こんな生活をしていてまともに勉強できるわけがありません。センター試験が近づくにつれて、国立志望の人はセンター対策にシフトしていきます(当時は国立志望でした)。模試で1度も総合7割を超えたことがなかった私は、とりあえず地方の情報系にいければいいなあとか思っていました。勿論、現実はそんなに甘くありません。

数ⅢCという存在を受験1ヶ月前に知った私は、内容をみて絶望します。なんだ楕円って。そもそも数ⅡBすらまともに出来ないのに無理だろう、諦めよう、と変に冷静になり、急遽情報系をやめて数ⅢCのいらない教育学部にします。もともと先生になりたいという夢を抱いていたこともあり、特に抵抗なく変更をしました。最後の模試は第五希望まで全て地方の教育学部数学科。数撃ちゃあたる戦法で判定を待ちました。

判定が返ってきた時、安堵と後悔に包まれました。一番遠い某国立大(以降A大)がA判定、1番近い某国立大(以降B大)がC判定という結果(他忘れました)。落ちたら学費が数倍になる私立の道しかない(と思っていた)私にとって、国立不合格というのは1番危惧すべき事でした。面談などをした後、A判定のA大を受験することに決め、無事合格。合格した時も別段感動もなく「あ~大学生~」とか思っていました。その4時間後に東日本大震災が来るとも知らずに。

大学生(1年生1回目)

・入学式はありませぇん! 新歓のない新歓期

マンションの11階で無事合格しくつろいでいた時に、あの地震が襲ってきます。あの恐怖と規模は言わなくても伝わることでしょう。幸い身内に怪我などはなく、マンションも無事でした。家の中のテレビが水平に吹っ飛んだり食器が粉々になったりはしましたが、たぶんそれどころではなかったのでしょう、様々なところに連絡をとり、食品を急いで買い、テレビを見続けていました。

震災から1ヶ月ぐらいが過ぎた頃でしょうか、大学から連絡が来ました。震災の影響で入学式がなくなるとの事。折角買ったスーツも着ずに終わります。当時の私にとって入学式などただの面倒な行事であり、「まぁしょうがないか」程度の気持ちだったのですが、新歓もなくなると知った時はショックでした。新入生にとってサークルを決めるてがかりとして新歓は大きな影響力をもっています。むしろ新歓なしでサークルを決められるのでしょうか。とくに大きくもない地方の大学なのでサークル紹介のHPが充実しているわけでもなく、サークル探しは困難を極めました。

唯一目をつけたのがソフトテニスサークルでした。中高6年間やっていたこともあり、少しは自信があったので見学に行くことに。そしたらなんと、とっても失礼ですが、皆さん弱いのです。絶対私が1番強いと思いました。萎えました。即切りでした。そもそもサークル数が少ないので、そこで私のサークル探しは終わり、何も入らないことが決まりました。

・様々な誘惑と黒歴史

初めて一人暮らしを初めて1ヶ月もすると、次第に実家では出来なかった事に挑戦するようになります。まずは夜更かしです。教育学部は学科が十数人のため、自然に友達が出来ます。カラオケボーリングダーツ等を徹夜で遊びまくりました。そのまま帰宅してシャワー浴びて即大学(歩いて1分)という日々が続きました。授業は勿論爆睡。

次に歌ってみたです。もうこれは黒歴史中の黒歴史であります。塾講バイトも始めて金銭的に余裕ができると、なんか良さげなオーディオインターフェース(録音とかに使うやつ)と安いマイクを密林で購入し、カラオケで録音をしてました。高校3年生の時からニコニコにハマり、歌ってみた廃になり、影響されやすいあの頃の私は「いつか自分も歌いたい!」と意気込み、ついにその日がやってきたのです。とはいってもこの頃はMIXも超初心者で、聴けたもんじゃありません。案の定コメントは罵声の嵐。豆腐メンタルの私は即刻動画を削除。4つぐらい出しましたが現在は全て削除済みです。そしてこの頃から「歌うぐらいなら自分で作ったほうがよくね・・・?」とか思い始めます。

夏休みに入ると、サークルに入ってない私はバイトと麻雀に明け暮れます。昼から夜までバイト、徹夜で麻雀、昼間で就寝という生活リズム。みんなギャンブラーの血が騒いだのか、「もういっかい!!!次は勝つから!!!!」が無限に続き朝まで不毛な争いが続きました。

そしてついに、鏡音リン、レンとの邂逅を果たします。

・鏡音さんがやってきました。

秋学期が始まると、今までの生活に慣れてしまっている私はどうしても朝起きることが出来なくなります。次第に欠席の数が増え、単位がこぼれ落ちていきます。この頃から、「私は何でここにいるんだ・・・?」と考え始めるようになります。なんとなく受かった教育学部で、お金を浪費して学校をサボる日々・・・。親に申し訳ないと思いながらも、惰性で生活を続けていました。学校をサボってもとくに何もせず、寝てるかネットかゲーセンをうろついてました。 この時既にレン廃だった私はレンくんの動画を漁りまくり、だらしない顔をしながらニコニコに入り浸っていました。そして影響されるのです。「自分も曲作りたい!」と。バイト代で鏡音リン・レンを購入。そしてレン廃の意地でリンレンAppendも同時購入。到着したその日から鏡音をいじりまくります。しかし当時は作曲にDAWが必要な事がわからず、途方に暮れました。そこでひらめいたのが既存曲のカバー。これなら耳コピでメロディをつけて、オフボーカルと合わせるだけなので簡単でした。これがその動画↓※現在とアカウントが違います。

この時は1日に1つ動画を作っていました。すごく充実していました。すきなことをすきなだけするのがこんなに楽しいとは思っていませんでした。

その後冬休みに入る前あたりに、マインクラフト実況動画というものにハマります。すごいハマりました。学校に行かず半日以上続けて見ていることもありました。そしてお決まりのように影響を受けた私はマインクラフトを購入し、実況を観ながらプレイ。こうなると学校はほとんど行かなくなり、担任に心配されて呼ばれるほどでした(各学科に担任がいます)。さらに「実況動画作りたい!」と思い始めた私は、AVIutlというフリーの動画制作ソフトを使ってマイクラゆっくり実況を作ります。これがその実況↓※現在とアカウントが違います。

そんなこんなで秋学期は終わり、GPAは0.89。今でも覚えてます。不可の文字がずらっと並んでいました。しかし自然と後悔はなく、むしろ満足感にあふれていました。自分のすきなことしてGPA下がるならしょうがない、と。大学の授業に魅力を感じず行かなくていいと思ってしまうのは、勿論自分のせいですが、そこに意義を見出せないからだと。言い訳にも聞こえますが、この考えが今ここにいる理由でも有ります。

Cubaseがやってきました。

テストも終わり帰省すると、どうしても暇になります。そこで友人に勧められたバイトをすることに。1日12時間×7日ほど集中的に働きました。多額のバイト代はもちろんDAWに使います。今まで高くて買えなかったので念願のDAWです。ソフトはCubaseを選択。特に理由はなかったのですが、シェアが世界一ということで購入しました。

その後は時間の許す限りCubaseをいじくりました。何も楽器を弾いたことない私にとって作曲は困難を極めました。まずどの音を使えば良いのかがわかりません。黒鍵とは何なのか。なぜこんな半端な音を出すのか。腹が立った私はとりあえず白鍵だけで作曲しようと決意。これがその曲↓

今聞くとアレですが、初めて作ったにしては頑張った方だと思います。

その次に作ったこの曲↓が、何故か再生数が伸びます。

今聞くとアレですが(2回目)

ちなみにこの曲は10時間ぐらいで作れました。

その後もちょくちょく曲を出しましたが、12月の投稿を最後に失踪します。その過程を今から書いていこうと思います。

大学生(2年生1回目)

・学校を退学する兆候

新学期が始まるのですが、私は学校に行きませんでした。完全にサボりモードになってしまい、必修の数学と英語に隔週で出席する程度(勿論不可確定)。普段学校に行く時間をバイトに費やし、塾長に「このシフト大丈夫?」と聞かれたら二つ返事で快諾し、いつの間にか週6、1日6時間というフリーター並みの仕事量になっていました。バイトから帰ると友人と麻雀、昼まで寝る、バイトというどこかで見た生活がまた繰り返されて、慣れていきました。

春学期が終わり(GPAは0.3とか)、塾講師は夏期講習が始まります。朝から夜まで働き続けました。教えることは苦ではなかったので自分では余裕だと思っていたのですが、バイトの先輩に「最近顔色わるくない?」「疲れてない?」などと心配され始めます。確かにこの頃が一番体重が低かったのですが、特になんとも思っていませんでした。

そして遂に、退学を考える事件()がやってくるのです。

・病院に行ったら・・・

秋学期が始まり少しした頃、ふと自分の体を見ると赤い発疹があちこちにできていました。部屋が汚いせいだろうと信じ放っておくと次第に増えていきます。さすがにまずいんじゃないかということで皮膚科に行くと、何故か精神科を紹介されます。その後言われるがまま病院に行くと、衝撃の「うつ症状がでている」という診断結果が。なんてこった。今まで「うつとかwwwwwwwwwwただの甘えだろwwwwwwwwwww」とうつ過激派だった私は信じることができませんでした。その日はとりあえず寝ることに。

次の日いろいろ思うところもあり実家に連絡。それとなく最近学校行ってないことや体調が少し崩れていることを話すと、心配性の母が「どうせ学校行ってないなら1回こっちに戻ってきたら?」と。腐った生活をしていたのでちょうど良いと思い、とてもやさしい(神のよう)塾長にバイトをしばらく休む旨を伝え、冬休み前に実家に帰りました。

・英断

実家に帰ると、まず今までの生活を正直に話しました。怒られることを覚悟したのですが、母から出た言葉は大学をやめればいいんじゃないかという提案。しかし今まですでに2年間一人暮らし&学費の負担がかかっているので、さすがに私の口から軽々しくやめるとは言えません。この葛藤は成人式の前日まで続き、結局最後退学するということでまとまりました。理由として、この後学校に行ってもまた行かなくなる不安、自分が1番したいことができていない、一人暮らしに向いてない(起きれない)等が挙げられます。そして再受験の約束として、受験するのは3校まで、私立一般受験は一つだけ可という条件が課されました。実質滑り止め無しの勝負です。これは金銭面を考えるとかなり譲歩してもらった方だと思います。もしどこにも受からなかったら高卒で就職するという約束もしました。

成人式では会う友人みんなに「学校をやめる」と伝え、考え直した方がいいというアドバイスももらいましたが、揺らぐことなく退学しました。ここから、地獄の受験勉強(2回目)が始まるわけであります。

再受験の光

・勉強時間は1日12時間!

3月からまた受験勉強の日々がはじまりました。現役の時にお世話になった予備校で、朝9時から夜22時まで1日も休まず勉強をしました。現役の時のように友人がいないので、集中して勉強することができました。学校もないので余計な時間を浪費することもなく、効率的に勉強できました。

まさに「強くてニューゲーム」状態であり、4月の模試では数学の偏差値が70を超えたりしていました。他の科目もなかなか良い点数を取れていて希望がみえていました。その後も順調に成績を上げていき、何事もなく季節が過ぎ、気がつけば受験が近づいていました。かかっている重圧が今までの比ではないので、勉強も苦ではありませんでした。

・それでも届かない早稲田

自分の中では順調に成績が上がっていると思っていたのですが、受験前に伸び悩み、早稲田の判定がD判定以上でません。センター利用のMARCHは全て安定してA判定が出ているのですが、早稲田の独自問題はどうしても解くことができませんでした。センターはかなり自信があったため、センター試験が近づいても早稲田の対策だけをずっとしていましたが、過去問を何度解いても合格最低点に届かず、センター試験を迎えました。

センター試験は7科目で8割後半、化学は満点でした。センター利用合格を確信した私は、ただひたすら早稲田の対策をします。しかし結局、最後までC判定以上を取ることは叶いませんでした。

センター利用で出していた明治大学先端メディアサイエンス学科は合格。現状1番行きたかった学科だったので安堵しました。早稲田はあまりにも合格可能性が低いため、第1志望というより記念受験に近い形でした。

・受験本番

早稲田受験日当日は雪が降っていて、到着すると試験が大幅に遅れると連絡がありました。時間通りに到着した私は受かりもしない受験のために数時間待たされるのかとイライラしていました。いざ始まったものの轟沈。英語はそれなりにできたのですが、数学は全く解けずテスト中少し泣きました(実話)。「まぁ明治受かってるしいいか」と開き直り、予備校の先生に「全然駄目でしたwwwwwwwwwwww」と報告し帰宅。友人にも「早稲田落ちたwwww」と伝え、明治大学に入学すると誰もが思っていました。千葉大よりも明治のほうが私にとって魅力的であったため、千葉大の受験はパス。全ての受験を終えて友人と飲みに行き、それはもうはしゃぎました。しかし心には後悔が残っていました。どうせなら早稲田に受かりたかった、明治よりも更に面白そうな表現工学科があるのに、と。

・合否発表

完全に落ちたと思っていた私は、早稲田の発表を見る気もなく二日酔いもあり寝てました。午前10時頃、母親からの電話で起床。「なんかアンタの受験番号合格者のとこにあるんだけど」と言われ、見間違いで期待させるのはかんべんしてくれと思い一応自分でも確認。そこには自分の受験番号がしっかり書かれてありました。それでも信じられなかった私は「どうせこれ去年のとかだろwwww」と母に言うと、「電話で教えてくれるらしいから一応かけてみなさいよ」というので電話の合否通知サービスに問い合わせました。「合格です。おめでとうございます」と発した瞬間、電話の向こうの母と共に絶叫しました。信じられませんでした。あれだけだめだったのになぜ受かったのか、今でもわかりません。そのまま予備校に直行し、先生に報告。すごい驚いてました。

間違いなく今までの人生で1番嬉しかったです。自分のやってきた努力がしっかり結果に繋がる瞬間でした。やっと自分のすきなことができると思うと、興奮が抑えられませんでした。3年遅れの入学ですが、そんなこと気にする性格ではありません。胸を張って入学しました。

大学生(1年生2回目)

・新歓でみつけた面白そうなサークル

無事入学式を終えると、今の新入生の方とおなじ新歓ラッシュに巻き込まれます。さすがに18歳に見えないのか、他の新入生と比べると圧倒的にチラシの数が少なかったです。最初はソフトテニスサークルか作曲研究会に入ろうと思っていました。しかし所謂「大学のテニサー」の偏見(所属の方申し訳ない)があり、テニスは断念。作曲研究会はブースに行ってみたのですが、とても素人の私が入れるようなサークルには見えず、皆さんスキルの塊といった感じで、非常にレベルが高そうな印象を受けました。

ほかに何かないかと理工キャンパスを一人でうろうろしていると、「ゲーム制作、イラスト、作曲、プログラミング」の文字が目に入りました。作曲に釣られた私はブースで説明を聞くことに。すごく丁寧なサークルの解説とのんびりした雰囲気を感じたのを覚えています。直感でここに入ろうと決意。その後は現在行われてる新歓と同じように、先輩の話を聞いたりご飯を食べに行ったり・・・

某同期のT氏に何度説明しても先輩だと信じられてたのは今でも忘れません。

6月の発表会はこの曲↓を出しました。

まぁよくこんなアレな曲発表出来たなぁと今でも思います。

続いて夏合宿や早稲田祭、冬合宿がありましたが、それはまた別の話・・・

さいごに

「何を始めるにも遅すぎるということはない」

おわり