MIS.W 公式ブログ

早稲田大学公認、情報系創作サークル「早稲田大学経営情報学会」(MIS.W)の公式ブログです!

ねぇ、文学読もっ?[AdventCalendar10日目]

こんばんは。48代takasumiです。 僕はプロ研とシナリオ班に属しているんですが、プログラムについては全然詳しくないので、シナリオ班関係のことを書こうと思います。でも、シナリオの書き方とか、そういう方法論を書こうとしても、僕より詳しい人が絶対いる。だったら仕方ない、好きなことを書いてやろう、ということで、文学です! ゲームのサークルなので、こういうテーマが場違いであることは自覚しているんですけれど、それくらいしか書けることがなかったので、許してね。 さて。ツイッターで長くフォローしてくださっている方はご存じだと思うんですが、僕は文学が好きです。でも、皆さんの中には、文学に対して堅苦しいイメージを持っている人も多いですよね。「気取っている感じがして、いけ好かない」と感じている方もいるかもしれません。

そんなマイナスイメージを、少しでも払拭できたらなー、と思って書いたのがこの記事です。文字が多いですけど、あまり身構えないで、気楽に読んでもらえたら嬉しいです。

○文学は誰のためにあるのか。

いきなり大上段に振りかぶりました。気楽にって言ったのにねw

この問いについては、もちろん人によっていろんな答えがあると思いますが、ぼくはまず、何か悩みを抱えている人、心に傷を抱いて苦しんでいる人のために文学はある、と言いたいです。なぜかというと、僕自身がかつて一度、文学によって救われたことがあるからです。

その出会いが訪れたのは、僕が高校3年生のときでした。高校の自習室でセンター試験の現代文の過去問を解いていたら、いきなりこんな一節に突き当たった。

ふたりは、ふたりであるがために身をこわばらせて黙り込んだ。目を逸し合いながら、互いの胸がヒクヒクと震える音を聞いていた。その震えの中に、ありがちな自己陶酔のうねりと、高潔な魂を気取る虚飾の顫動を同時に認めていた。より多く哀しめることを誇るような、より傷つきやすいことを言い訳にするような、まるで転んだだけで大声をあげて泣き叫びおとなの庇護を要求する幼児のような浅ましさを相手の中に、そして自分の中に見いだした。 松村栄子『僕はかぐや姫

これを読んだとき、僕は胸を衝かれたような心地がしました。「このままじゃいけないんだ」と思った。

ちなみに当時僕はものすごく繊細な人間で、近くで誰かが笑っただけで「自分のことを嘲笑したんじゃないか」と傷ついたりしていました。ほめられたら皮肉と捉え、自分や他人の善意に底意や自己満足があるんじゃないかと疑っていた。人間不信と言い換えてもいいかもしれません。

一度そうなってみたら分かりますが、こういう生き方って、すごく生きづらいんです。当たり前ですけど。本人も、出来ることなら抜け出したいと思っている。でも、どういうわけか抜け出せない。

それは、予防線を張ることで自分の心を守っているという理由もあるんですが、たぶん本人の中にどこかしら、そこまで連想して傷つくことができる察しの良さを誇っているフシがあるんです。少なくとも僕はそうでした。

たとえば何か良いことをしたときにも、素直に満足感に浸ることはできずに、「今自分が良いことをしたのは、他人のためなどではなくて、他ならぬ自己満足のためではなかったか?」と自問自答したりする。他人の善行に対しても同じ問いを向ける。ひねくれているという自覚はあっても、そういう葛藤を抱きうるという点で、自分は他人より勝っていると思っているわけです。

でも、ただでさえ性格は変わりにくいのに、自己正当化までしてしまったら、抜け出すことは難しくなります。そうして僕らは、暗い陰鬱の中に自らを引き留めることになる。そういう人って、わりとたくさんいます。

自分の悩みを、やたら崇高なものだと思いたがる人がいますね。悩みの深さが人間性の深さまで決めるとでもいうように。その基準だと、より悩みが深く回復不能であるほど、高潔な人格を獲得できたことになる。事実、高潔かもしれないんです。それは否定しません。でも、一度そういう基準で自己肯定してしまうと、その人は自らの悩みが持続し、それによって苦しみ続けることを無意識的に願うようになります。必ずそうなる。ある種の憂鬱は、苦しんでいる当の本人が、自ら進んでその状態を維持するように構造化されているのです。一度足を踏み外せば、そこから無限にどこまでも落ちていけるようになっている。いわば奈落へ向けて開かれているんです。よく見ると、そういう穴がそこら中に開いている。怖くないですか。僕は怖い。

でも、実はその「奈落」に落ち込んだことがあるのは、僕たちが初めてではないんです。ほとんどは既に先人によって攻略され、脱出の道筋が分かっている。しかも彼らはただ自分だけを助けて満足したのではありません。後で誰かが同じ場所に落ちてきても、無事に切り抜けられるように、ケルンを作り、休憩小屋を建て、急斜面にはロープを杭で打ちつけ、道を整備してくれている。その上後続が迷わないようにガイドまで買って出てくれているわけです。困難な崖”crazy cliff”に先に登って、「ほら、そっちは危ないぞ。ここへ掴まりなさい」と手を差し伸べてくれている。文学というのは本当はそういう暖かいものなんです。決して一部の人たちの知的装飾のためにあるわけじゃない。

さっき引用した文章を初めとして、一時期僕は貪るように文学(や哲学)を読み漁っていました。憂鬱から抜け出す手がかりがないか、血眼になって探していた。そうして命からがら抜け出して、こうして文章を書いているわけです。今思うと、大げさなんですけどね。ただ、あの頃は本当に必死だった。

というわけで、僕自身は文学に対して救死の恩がありますから、文学のそういう人を癒し、諭し、鼓舞する力というのを信じているんですが、もちろんそれ以外の理由で文学を好きになる人もいます。純粋に文章の美しさに心打たれる人もいますし、エンターテインメントとしての面白さに惹かれる人もいます。当然、そういう楽しみ方もあっていいはずです。ただ、やっぱり僕は、「自分にどう響いたか」をベースに文学を語るべきだと思う。書き手としての僕は、ほとんどそのために(「響いて」欲しくて)、ものを書いているんですし。

ところで、ここまで読んで、「それ、別に小説である必要なくない?」と思った方もいるのではないでしょうか。「俺はゲームに人生を教わった。俺にとってはゲームが『文学』だ」みたいな。

結論から申し上げますと……ええ、もちろんそうです。

確かに映画やマンガ、ゲームの中にも、ここで書いたような「薬効」を持っているものがあります。それだって文学と呼んでいいでしょう。いいはずです。(もうそれ"文"学なの、という疑問はさておき)

だからゲームを通じて「文学みたいなこと」をやろうとするのは、僕はぜんぜん間違ってないと思っています。去年『言弾』でやろうとしたのもそういうことだったんですが、あれは少し我を出しすぎましたね。そこらへんの塩梅は、難しいところです。

さて。最後になりますが、ちょっとだけ、僕が好きな作品を紹介して終わりたいと思います。個人的に「響いた」箇所も合わせて載せているので、興味があったら読んでみてください。

まず、初めの方で引用した文章に少しでも共感した人は、今すぐ川端康成の『伊豆の踊子』を買って読むべきだと思います。泣きますよ。

……私は非常に素直に言った。泣いているのを見られても平気だった。私は何も考えていなかった。ただ清々しい満足の中に静かに眠っているようだった。 ……私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持ちだった。明日の朝早く婆さんを上野駅へ連れて行って水戸まで切符を買ってやるのも、至極当たり前のことだと思っていた。何もかもが一つに融け合って感じられた 川端康成伊豆の踊子

文学に興味が出てきたら、思い切ってドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に手を出してみてもいいかもしれません。長くて読むのは大変ですが、それだけの価値があります。以下の一節は、物語の最後で、主人公のアリョーシャが親しい子供たちに向けて語った台詞です。

「……いいですか、これからの人生にとって、何かすばらしい思い出、それも特に子供のころ、親の家にいるころに作られたすばらしい思い出以上に、尊く、力強く、健康で、ためになるものは何一つないのです。君たちは教育に関していろいろ話してもらうでしょうが、少年時代から大切に保たれた、何かそういう美しい神聖な思い出こそ、おそらく、最良の教育にほかならないのです。そういう思い出をたくさん集めて人生を作り上げるなら、その人はその後一生、救われるでしょう。そして、たった一つしかすばらしい思い出が心に残らなかったとしても、それがいつの日か僕たちの救いに役立ちうるのです。もしかすると、僕たちはわるい人間になるかもしれないし、わるい行いの前で踏みとどまることができないかもしれません。人間の涙を嘲笑うかもしれないし、ことによると、さっきコーリャが叫んだみたいに『僕はすべての人々のために苦しみたい』と言う人たちを、意地悪く嘲笑うようになるかもしれない。そんなことにはならないと思うけれど、どんなに僕たちがわるい人間になっても、やはり、こうしてイリューシャを葬ったことや、最後の日々に僕たちが彼を愛したことや、今この石のそばでこうしていっしょに仲よく話したことなどを思い出すなら、仮に僕たちがそんな人間になっていたとしても、その中でいちばん冷酷な、いちばん嘲笑的な人間でさえ、やはり、今この瞬間に自分がどんなに善良で立派だったかを、心の内で笑ったりできないはずです! そればかりではなく、もしかすると、まさにその一つの思い出が大きな悪から彼を引きとめてくれ、彼は思い直して、『そうだ、僕はあのころ、善良で、大胆で、正直だった』と言うかもしれません。内心ひそかに苦笑するとしても、それはかまわない。人間はしばしば善良な立派なものを笑うことがあるからです。それは軽薄さが原因に過ぎないのです。でも、みなさん、保証してもいいけれど、その人は苦笑したとたん、すぐに心の中でこう言うはずです。『いや、苦笑なぞをして、いけないことをした。なぜって、こういうものを笑ってはいけないからだ』と」 ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟原卓也

……うん。今読んでも「来る」文章です。ほんとうにすごい。

というわけで、長くなりましたが、文学について書かせていただきました。本当にとりとめのない文章で、ここまで読み進めてくれた人がどれだけいるか分かりませんけれど、その中の一人でも膝を打って、「ああ、そういうことだったのか。なら自分も文学を読んでみよう」と思ってくれていたら嬉しいです。

ではでは!