こんにちはこんにちは。48代takasumiです。
はじめはこの記事、「アナロジーを仕込むとメタファーが生まれる」というタイトルだったのですが、これだと少し読む人が限られるかなーということで、少し手を加えて「アナロジカルゲームデザイン」になりました。内容は、アナロジー的な視点からゲームデザインを考えようみたいな感じです。んひぃはんひぃです。
一応私はサークルにいた三年間で、二つのゲームの企画・制作に携わってきたわけですが、どちらの作品でも、世界観とシステムを両立することを目指していました。それも、優れた世界観と優れたゲームシステムが独立して存在するのではなく、二つが融合した作品を作りたかった。
そして、今振り返って思うのは、この「世界観とシステムのかみ合わせ」を作る鍵となるのが、他ならぬアナロジーだった、ということです。この聞きなれない単語の意味については後で説明しますが、とにかく今回は、世界観を重視しながらゲームをデザインするということについて、少し掘り下げてお話をしていけたらと思います。
ゲームデザインについて
まず、ゲームデザインについて考えるなら、ぜひとも読んでおいてほしい文章があります。
コスティキャンは、あの有名なTRPG「パラノイア」のデザイナーの一人、と言えば一部の人には伝わるでしょうか。
彼は上の記事で、ゲームにとってゲームデザインがどれほど重要かを語っています(原文のタイトルは”I Have No Words & I Must Design.”です)。
私はシナリオ班を復活させた人間だけあって、みすに入った当初はストーリーで何かを伝えたいという思いが強かったのですが、この記事を読んだときは、「もし本当に良い『ゲーム』を作りたいと願うなら、ゲームデザインについて考えることは、避けては通れないな」と思いました。
というわけで、当時私の中でゲームデザインは大事だ、ということになったんですが、やはりシナリオ班の人間としては、ここで引き下がるわけにはいきません。ストーリーだってゲームの重要な要素になりえますし、世界観だってゲームに大きな貢献をしているはずです。
もしチェスの駒が騎士や司教ではなく、別の何か――たとえば、絵本に出てくるような絵柄の森の動物たちだったとしたら、これほど広く人々に受け入れられたでしょうか。
プロのチェス棋士が、こんな対局をしているシーンを思い浮かべてみてください。
「きつねさんをBの7へ。チェック」 「くまさんをDの8へ」 「うさぎさんをEの7へ。チェック・メイト」 「……参りました」
無理です。どんなに知的な戦略を求められるゲームだろうが、これではサマになりません(「むしろ面白い」とか言う人は、くまさんのゲームでもやっといてください)。
では、なぜ騎士や司教ならよくて、くまさんやうさぎさんではだめなのでしょう。
「単純に、 騎士や司教の方が雰囲気が出るからだろう」と片づけてしまうこともできますが、せっかくなので、少し”ひねた見方(スピン)”というのをしてみたいと思います。私の仮説はこうです。
「チェスは騎士や司教といった軍兵や権力者をモチーフに使うことで、本物の戦争から少しだけ雰囲気を借りている」
チェスに言葉はありません。あるのは駒のモチーフと、駒が駒を取るシステムだけです。しかし、それだけでプレイヤーは、ゲームの裏にある戦いを想像できます。「駒を取ったときには、相手の駒を殺している」ということが類推できる。それがチェスというゲームに、実在の重みを与えているのだと思います。
これこそが、アナロジーの働きです。
アナロジーとは、類推のことです。あるものを表すと同時に、遠くにある別のものを表すこと。何よりそれを受け手が気付かないうちに、秘密裏に行ってしまえること。
たとえば「人生は旅だ」という言葉がありますが、一度この言葉を聞くと、私たちは旅における出来事を、人生におけるそれに置き換えて考えることができるようになります。「旅は道連れ」という実感から、「世は情け」という教訓を引き出せる。人間の想像力はすごいですね。
そして、ここからが大切なのですが、単に「面白いゲームが作れればそれでいい」というわけではない人、世界観や雰囲気で個性を出したいと思っている人にとっては、むしろこのリンクをうまく使って世界観とシステムをシンクロさせることが、結構重要になってくるのです(と私は思います)。
アナロジーについて
ここで少し脇道に逸れますが、アナロジーをうまく使った作品をご紹介していきたいと思います。
一つ目は『ノラガミ』というマンガです。
『ノラガミ』は、マイナーな神様「夜ト」と、魂が抜けやすい女子高生「壱岐 ひより」が、人の願いを叶えたり、妖(あやかし)を倒したりするマンガです(私はこの記事を書くために一巻だけ買って読みました)。
これだけ聞くとよくある少年漫画のようですが、この作品の面白いところは、作中に出てくる「妖」に、世界観的な意味づけを行っているところです。
物語序盤で、夜トはいじめられている女子高生「睦実」を助けるのですが、そのときに妖の説明をするシーンがこちら。
『ノラガミ』の 中で、妖は人の負の感情(「呪」)の具現になっています。上の妖は、睦実に対するいじめをカリカチュアライズしたもので、睦実を唆してリストカットをさせようとします。それに対して、左下に出てくる小さいひよこは女の子を守ろうとしていますが、これは「祝」の具現で、女の子が合格祈願に作った願掛けの指輪から出てきたものだそうです。
お分かりいただけたでしょうか? これはまさしく、私たちの世界のことを語っているのです。
いじめが原因だろうと何だろうと、負の感情やいやな空気は「呪い」として作用し、人を追い込みます。それに負けてしまうと、人は「魔が差して」、自殺したり、何か事件を起こしてしまったりします(少なくともこの作品の中では)。
そういう呪いに対して私たちは、人との繋がりとか、ちょっとした希望を心の支えにして生きることがあります。それが「祝い」です。
『ノラガミ』は、少年漫画によくある妖という敵対的存在を、世界観とうまく対応させることで、上のような見方を受け手に取らせることに成功しています。結構面白かったのでオススメです。私も二巻以降買おうかな。
ゲームの分野においても、アナロジーをうまく使うことで成功した作品が一つあります。
それが『艦これ』です。
ご存じの通り、『艦これ』は旧日本海軍の艦艇を擬人化したキャラクターを集めて戦う育成型シミュレーションゲームです。
『艦これ』が成功したのは、ゲームとしてきちんと作られていたこともありますが、個人的には日本海軍の艦艇をモデルにしていたことが大きいと思います。
プログラマの方は分かると思いますが、本来ゲーム上のデータの意味というのは、どうでもいいんです。キャラチップがなければ矩形の画像でもいいですし、名前が決まっていなければhogeでもかまわない。艦艇が気に入らなければ、城でも刀でもいい。
でも『艦これ』は、ゲーム上のユニットと、旧日本海軍の艦艇の間に等号を成立させました。こうすることで何が起こったか。
分かりやすい例が、「轟沈」というシステムに対するプレイヤーの反応です。
私は『城これ』や『刀剣乱舞』はやったことがないのでよく分かりませんが、それらのゲームでユニットを失って、当を失って悲しんだという人はあまり見たことがありません(私の周りにいなかっただけかもしれませんが)。でも、『艦これ』の場合は違いました。たかが一つユニットを失っただけで、お葬式のような空気になってしまった人を見たことがあります。単にレベルが高かったから、キャラクターの絵が可愛かったから、という理由で片づけられるものではなかった気がします。
そのことに対する解釈として可能なのが、先ほどのチェスの例と同じように、 実際に沈んでいった旧日本海軍の艦艇がいるという事実が、「轟沈」という単語に少しの重みを与えた、というものです。
こう考えると、アナロジーって案外バカにできないな、という気持ちがしてきませんか?
深みを目指すなら
上までの内容で、アナロジーがゲームデザインにそれなりに有用かもしれないということは分かっていただけたと思うのですが、実はアナロジーのすごいところはこれだけではありません。
最初に引用したコスティキャンが言っているのですが、ゲームとは意志決定をするということらしいです。
チェスであれば、どの駒をどこへ動かすか決める。シューティングゲームであれば、自機をどの方向へ動かすか、いつ弾を撃つかを決める。ノベルゲームであれば、どの選択肢を選ぶか決める。およそゲームと名の付くものにはすべて意志決定の要素があり、その意志決定が悩ましければ悩ましいほど、ゲームとしてはよくできていることになります。
これがゲームが他の表現形態とは違うところです。
小説やマンガ、舞台、映画などにとって、受け手はあくまで受け手であり、多少解釈や「合いの手」など参加要素はあるものの、基本的には与えられたものを受け取る立場に留まります。
しかしゲームを遊ぶとき、プレイヤーはその世界の中で動き回り、物事に触れ、出来事を体験することができます。以下は、永田泰大の『ファイナルファンタジーXIプレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』という本の一節です(実は孫引きなのですが……原典はいつかきちんと確認します)。
(2002/6/28) しばらく進むと、前方に、草原のど真ん中に、真っ白い建造物が現れた。丸みを帯びたその建物は、人の手によって建てられたとは思えない不可思議に満ちていた。驚く僕を、Vさんがその中央へ導いた。 建物は大きかったが、なんのためのどういう建物なのかまるで見当が付かなかった。野外音楽堂のステージのようになっている真ん中の場所に踏み入れると、さらにその謎は深まった。床が、紫色に輝いている。そしてなにより、中央に巨大なクリスタルが浮いている。 僕は、ここでのVさんとのやり取りをよく覚えている。 「ここは、デムの岩と呼ばれています」 「デムの岩……」 「詳しいことは私にもよく分かりません」 白状すると、僕は一瞬、NPCと会話しているのではないかと思った。自分のタイプしたセリフにすら、誰かの手によるものではないかと錯覚した。もちろんそんな馬鹿なことはあり得ない。しかし、このできすぎた風景はどうだ。 モニターの中と外で、僕はまたしてもくらくらする。 脚色なく綴るだけで物語のようになってしまう、このゲームはいったいなんなのだろう。こういったできすぎた風景が、モニターの中と外を巡るくらくらする感覚が、プレイヤーの数だけ存在するのだろうか。僕が明け方に思い至って北への道を進まなければ、このやり取りはなかったろう。1分遅れただけでもVさんと会うことはなかったろう。僕が新しい場所に踏み入れた瞬間にエルヴァーンの戦士がモンスターを叩き斬るなんて演出を、誰が周到に仕組んだところでとても実現できないだろう。 明け方に、すっかり眠気の覚めてしまった頭の中に、さまざまな場面が巡る。 そこに人が関わるということは、たんに冒険中にチャットができるということだけではないのだ。些細な出会いやわずかなやり取りの中にさえ、こんなにもわけのわからない感覚を僕は味わう。それがあらかじめ誰かに意図されたものであろうとなかろうと、僕は目の前に展開する些細な出来事をかけがえなく感じてうっとりする。 長くなりました。もうすぐレベル12です。
これだけ楽しみながら遊んでくれるプレイヤーも少ないと思いますが、『艦これ』でも実際、自分の艦隊が苦労の末にボスを倒したいきさつを、一つの物語のように ――まるで一緒に出撃して見てきたかのように語る人はいました。
私はこれこそが、ゲームの強みだと思います、デザイナーが作った世界の中を、プレイヤーは少しだけ、生きることになる。 そしてその軌跡は、一つの「思い出」としてプレイヤーに記憶される。他の表現形態ではこんなことはできません。
アナロジーを使って(世界観とシステムを同期させて)ゲームをデザインするということは、この意志決定の枠組み自体を決めるということに他なりません。
たとえば、『艦これ』の中で迫られる究極の選択はこうです。
第一艦隊の指揮官であるあなたは、幾度にもわたる出撃の末、ボスの目の前まで辿りつきました。しかし直前で一人の艦娘が大破してしまい、このまま進撃すれば轟沈もあり得ます。ボス攻略のために費やした資源は甚大で、もしここで諦めれば大変な損失になります。そんなとき、あなたは進撃しますか、撤退しますか?
人によって答えは違うと思います。正解のある問題ではありません。
しかしなにはともあれ、ゲームの中では誰もが多かれ少なかれ何かを決断します。そしてその結果に一喜一憂するのです。もしかしたら、「あのときああすればよかった」なんて、後悔することもあるかもしれません。あるいはそれだけでは終わらず、プレイヤーは「帰ろう。帰ればまた来られるから」……などと、日本帝国海軍に関する逸話を引いて、何か教訓を得た気分になったりもするかもしれません。
こんなことが、単なる矩形と意味のない文字列の羅列でできるでしょうか? 私は無理だと思います。そこには間違いなく世界観との共振がある。
まあ、これを意図してやろうとすると、すさまじくむずかしいんですけどね。私は一作目の『言弾』のときにそれをやろうとしてコケたので、二作目の『Phototaxis』では少し抑えめにしました。
おわびとおことわり
ということで、アナロジーを使ってゲームをデザインすると面白いんだよ、というお話でした。本当は「じゃあ具体的にアナロジーを仕込むにはどうするんだ」みたいな話もしたかったのですが(実は下書きもしてあって後は文を整えるだけ)、時間がないので割愛します。おのれ〆切……。
あと、記事の中でメッセージ性みたいなことを書いてますが、当たり前ですがすべてのゲームがこうあるべきだみたいな話ではないです。私だって戦車に乗っているときに「この戦車は第二次世界大戦の……」とか考えてません。要するに「こういう作り方もあるよ」というだけです。興味がない人は適当に聞き流してください。
さて……ここまで読んでくれている人がどれだけいるか分かりませんけれども、少しでもみなさんのゲーム制作に役立てば幸いです。
最後になりますが、昨日は追いコンありがとうございました!
大学に入ってからの三年間を捧げたサークルを引退したと思うと感慨深いです。後悔が全くないかと言えば嘘になりますが、たぶんそれが当時の自分の精一杯だったんだろうなと思います。いろいろな不満もあったかと思いますが、49代以降はそこらへんの反省も活かして頑張ってください。もちろん、楽しんで!
48代はおつかれさまでした。頼りない(ほんとに)幹事長を支えてくれてありがとうございました。また今度ゆっくり飲みたいですね。
アドベントカレンダーはまだまだ続きます。明日でちょうど折り返し地点でしたっけ。次期プロ研会長の記事楽しみですね。
ではでは!